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2013.12.22 高橋大輔から受け取ったもの
私の中で今も「The Long And Winding Road」が鳴っている。
うっかり気を抜くと虚脱状態になってしまう。
大ちゃんがソチに決まって、ホッとする気持ちでいっぱいになってもいいはずなのに。
あの日の大ちゃんが思い浮かぶたび、まだ泣けるという
一言で言うならば。

あの日、「高橋大輔」から受け取ったものが私のキャパをはるかに超えるものだった

ということなのだろう。

「負けてなお強し」と産経が書いてくれたのは去年の全日本だったか。
私にとって、去年も今年も「高橋大輔」の全日本だった。
心の一部を持っていかれたまま、もう三日だ。

最後の全日本」を読み返すと、哀しくてさびしくて泣いただけの記事になっている。
「高橋大輔」の最後がこんなことでいいはずがないと、ただただ哀しくて。
こんなことになるなら、ニースのワールドでは勝たせてあげたかったと今更ながらに切なくて。
そして、「高橋大輔不在のフィギュア」がリアルになった寂しさは予想をはるかに超えるもので。

高橋大輔の代わりは高橋大輔以外にはないのだと改めて思ったGPファイナル。
だけど、あの時は「欠場」だったんだよね。
今のフィギュアはのめりこむにはしんどくて、ほとほと疲れて、そんな日々とも大ちゃん&真央ちゃんの引退とともにすっきりお別れ。
その時を迎えたら、ホッとする気持ちも少しはあるかなと思っていたけれど、「高橋大輔不在」の大会が続いていくこれからは想像をはるかに超える寂しさで私を打ちのめした。

そんなこんなで、ものすごく悲しくて、さびしくて、混乱していたけれど。
泣けて泣けて、頭がガンガンするほど泣きながらも、ビートルズメドレーが鳴りやまず。
大ちゃんの演技が思い浮かぶたびに、また泣けて。
自分でもどうしてこんなに泣けるのか、おかしくなるほどだったけれど。
あの日、「高橋大輔」から受け取ったものがそれほど大きかった、ということなのだと今は思っている。

多くのスケーターが口にする観客やファンへの「感謝」の気持ち。
もちろん、リップサービスとは決して思わないけれど。
どれだけファンが演技前に声援を送ろうと、いったん演技が始まれば、そこはスケーター個人の世界のものであって、観客は「観客」に過ぎず、根本のところではスケーターとファンは片思いの関係だと、私は思っていた。そういうものだと思っていたし、もちろん、それをさびしいとも思わなかった。

でもあの日。
あのすごい大歓声の中で、私の声は大ちゃんに届いたと確かに信じられたし、大ちゃんから確かに「愛」を受け取ったと信じられたのだ。
あの広いさいたまアリーナの400レベルのC席の、天井に手が届きそうな隅っこの席にいた私にさえ。

もちろん、それは、「高橋大輔」というひとりのスケーターと「観客あるいはファン」としての集合体としての関係なんだけれど、あの時、私は「集合体のなかのひとり」ではなく、「1:1」で「高橋大輔」からの深い愛を受け取ったと思えたんだよね。

あはは。
おめでたい?

うん。
どんだけ図々しい思い込みなんだよと笑われるかもしれないけど。
そう信じることができた私は、あの日、まちがいなく、とても幸せなファンだった。
あの日のあの心の震えを私は一生忘れないだろう。


六分間練習の時から、私の涙腺はかなりヤバくて。
氷の上の大ちゃんを目にしっかり焼き付けたいと思うのに、ぼやけてきて。
だけど、途中から、涙の「質」みたいなものが変わったのが自分でもわかった。
声をもらさず泣くのが苦しいほどの。
まさに、ああいうのを「心が震える」というのだろうというような。

後に記事で、「ミスを重ねるごとに、これが最後の演技だという気持ちが湧いてきた」という大ちゃんの言葉を知ったけれど、もしかしたらそれは、三回転の失敗が続いて、大ちゃんの中で「競技」ではなくなった時と重なるのかもしれない。

「オレのスケート人生、ここで終わるのか。本当にここで終わるのか。」
それは天に向かって慟哭するような哀しみだっただろう。
どうしようもなく全身が哀しみにどっぷりとつかりそうでありながら、底から伝わってくる深い深い「なにか」。
それは「愛」とよばれるもの・・・だったと思う。
ものすごく陳腐な表現になって、書くのも恥ずかしいんだけど。

録画しておいたものを家で観たら、終わった直後の大ちゃんの笑みが哀しくて、きれいで、あまりにも透徹されていたて、また泣けた。

「アスリートでありアーティスト」。
スケーター高橋大輔を表現するのによく使われる言葉。

あの場面で二回目の四回転に思わず挑んでしまう大ちゃんはどうしようもなく「アスリート」で、その悔しさは私には想像もできない。
でも、終わった直後のあの笑顔は「アーティスト」のものに見えた。

「ジャンプの失敗はあったが、得意のステップなどで観客を魅了した。」
新聞記事なら一行で終わってしまうだろう演技かもしれない。
今の採点システムでは、得点には結びつかないこともわかっている。
得点で表せるものでもないんだろう。
「オリンピックはないんだな」と大ちゃんが思ってからのあの演技は「競技」ではなくなった。

私は感性が鈍いので、「芸術」というものがよくわからない。
美術館に行っても、「名画」とよばれているものをなんだかわかったような顔をしてみているだけだ。
でも、今まで、偉人伝や誰かの言葉や本やマンガ(←あくまでオタク脳ですみません)でしかしらなかった「芸術というものに心が震える」「絵あるいはバレエを観て、何かに打たれるほどの衝撃を受ける」(←マンガだと主人公が白目になったりするあたりか)ということを初めて本当に理解できるような気がした。
このヒト、なんかまた、おっきいこと言ってるなあって呆れられるかもしれないけど、いいの。本気で思ってるから。

そして、これ以外のプログラムではああも最後まで滑りきることはできなかったかもしれないと思う。
「感謝の気持ちを伝えたい」。
大ちゃん自身がそうローリーにリクエストしたというこのプログラムだからこそ、「助けられた」。

実は、私は、10月のジャパンオープンで、大ちゃんのフリーのお披露目を観ている。
その時の私の偽らざる感想は「オリンピックシーズンを戦うには弱いのではないか」。
男子も女子も「曲に助けられる」ようなプログラムが多く、ガラスのハートと呼ばれた時代をもつ大ちゃんがオリンピックシーズンに自分の心臓の音さえも聞こえそうなこの曲を迷わず決めたことに「ホントに強くなったんだなあ」と妙な感慨を持ったけれど、オリンピックシーズンを戦うプログラムとしては不安の方が大きかった。
でも、もちろん、大ちゃんが迷わず決めて、自分でも「気に入っている」というプログラムだから、シーズンを通してどうなっていくのか、この日、そう思った自分の気持ちがどう変わっていくのかも、見極めていこう、なんてのんきに思っていた。

「そんなオマエは豆腐の角にアタマぶつけてなんとやらだよ

って感じです。

全日本の直前スペシャル。
フジにしては珍しくいい出来だったけど、中でも印象深かったのが長光コーチが語った中学生の頃の大ちゃんのエピソードで。
遠征先のロシアかどっかで、大ちゃんがおばあさんの後をついていっていて、どうしたのと聞いたら、おばあさんが横断歩道を渡り切れるか心配でついていった、と答えた。こんなに優しい子が世界で戦えるのかと思った、という内容だった。

本来は、おとなしくて、繊細で、「自分はダサい」病の呪縛にかかっている大ちゃんがリンクの上で一転して魅せる顔も「高橋大輔」の魅力ではあるけれど、大ちゃんの本質は「優しさ」なんだなと改めて思った。
だからこその、ビートルズメドレーで「らしい」プログラムなんだと。

全日本での演技はもう二度とない演技だろう。
あれほどの悲痛な大ちゃんをもう二度と見たくないと思う。
けれど、あの日。
あれだけの思いをして。
大ちゃんとローリーが作り上げたあの「愛」のプログラムに、「魂」が入った。
と思う。

だから。
ソチで。
最高の大ちゃんを観られると信じている。
そして、その時は哀しみではなく、喜びが、大ちゃんの溢れるほどの愛とともにあることを信じている。



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